東野真 『緒方貞子―難民支援の現場から』
田沼武能 『難民キャンプの子どもたち』
ハンガリーを含むEU諸国には、とくにアフリカや中東を中心とする紛争地域から非難してきた難民の受け皿となるキャンプが設置されている。ギリシャを除けばEU最南端国となるハンガリーには、アフガニスタン、イラク、ソマリア、パレスチナなどから来た難民が多く保護され、ハンガリー社会での復帰を念頭に置いた支援活動がなされている。
前書は国連難民高等弁務官、アフガニスタン復興日本政府代表、JICA理事長などを務めた緒方貞子氏の生涯を振り返り、さらにインタビュー取材を通して現行の難民問題について緒方氏に迫ったもの。後書には、写真家である田沼武能氏が世界各国の難民キャンプで取材した子どもたちの様子が、数多くの写真資料とともに収められている。
子どもは、生まれてくる場所や親を選ぶことができない。その意味で、大人の引き起こした戦争などの被害によって被害を受ける第一の犠牲者といえる。子どもの写真を見ていると、やはりその不条理さに愕然とする。
石井光太 『物乞う仏陀』
『神の棄てた裸体―イスラームの夜を歩く』の著者である石井氏のデビュー作。アジアを歩き、とくにストリートチルドレン、障害者、最貧民とよばれる人たちへのインタビュー録。女を買う物乞いもいるし、少ない持ち金を持ち寄って相互に助け合う物乞いもいる。ひとりひとり、個人の心情を書き取っているところがすばらしいと思う。「物乞い」としてイメージする固定観念を打ち払ってくれる。
山本敏晴 『国際協力師になるために』
国際協力にかかわるすべての職業を国際協力師と呼び、そのために必要ないろいろな手順をかなり実践的なレベルで解説している。将来、国際協力系の仕事に就きたいと考えている人には、卒業後の進路を考える上でとても役に立つと思う。
村井吉敬 『エビと日本人Ⅱ』
エビという身近な食品のサプライチェーンを辿ることで、生産者と消費者の関係の不自然さを明らかにしている。『エビと日本人』『バナナと日本人』の延長線上に書き上げられた作品。2007年出版。
筆者は巻末にて、消費者側の根本的な価値観の転換なくして、生産者と消費者の「顔の見える関係」は築けないと主張する。
複雑に肥大したグローバルな市場において、双方にとって健全な経済活動を営むことには限界があるように感じられる。「顔の見える関係」を築くことが、物質的な豊かさ以上に大切なことなのだとしたら、(程度の問題は別にしても)地産池消・フェアトレードに代表されるような形で、資本主義だけのつながりだけではない関係を、生産者と消費者は切り結ぶべきであり、そのためにはとくに若年層にむけた教育・PRがいっそう必要であると感じた。
野村進 『コリアン世界の旅』
在日朝鮮・韓国人の議論は、「タブー」「腫れ物」として捉えるか、あるいは「解決されるべき問題」として捉えるかのふたつに分かれるとされるが、筆者はどちらの見地も日本人・在日コリアン双方にとって有益でないとする。そこで在日コリアンの日常に注目し、彼らの声を淡々とつづる。
パチンコ、焼肉、ボクサー、朝鮮学校、Jリーガー、歌手、阪神大震災などの国内の多数の切り口に加えて、ベトナム、アメリカ、韓国、済州島に住まうコリアンにも取材をおこなった。国際社会のなかに在日コリアンを位置づけ、客観視することに成功している。
「文化の衝突するところにこそ、新たな創造のチャンスが生まれる」というのは、誰の言葉だったか。在日コリアンとして生きたからこそ生まれた、聡明な思想というものが、作家の高史明(コ・サミヨン)の言葉で綴られている。引用はしないが、この言葉から日本人が学べることは、(在日コリアンの議論に限らず)とても多い。
特にインターネット上で無神経な発言が目立つ昨今だけに、本書のように誰にでも読め、インタビューの質も高い作品は、多くの日本人に読まれてほしいと感じた。最高に面白かった。
宮本常一 『宮本常一、アフリカとアジアを歩く』
宮本常一は柳田國男とならぶ日本民俗学の祖と言われる。日本各地を誰よりも取材した宮本のモットーに、「あるくみるきく」というものがある。実際にあるき、自分の目で見、話を訊き、まなぶという姿勢だ。旅からさまざまなことを学び取るという姿勢である。
本書は、筆者の晩年に海外取材をおこなった珍しい紀行文。本書では、「あるくみるきく」のスタイルが海外でも通用することを証明している。アフリカを身近で、日本人とも関わりやすい地域として描いている。台湾・韓国・中国と日本の重厚な歴史的共通点について書いている。
バスや飛行機においてさえも、宮本は必ず窓から景色を凝視し、風景の背後にあるものを読み取る。そうして、本では身につかない生きた知識を獲得していく。自分もさいきん、けっこう旅をするようになった。いったい自分は旅からどれほど学べているだろうか。考えさせられる。
水谷驍 『ジプシー 歴史・社会・文化』
ジプシー研究は欧米においても誤解が多い。本書はジプシーと呼ばれる人々の歴史、文化、暮らしぶりなどについて、限りなく正確に理解することができる入門書。
多くの人が抱くジプシーのイメージとしては、インドに起源を持ち、浅黒い肌、黒い瞳、黒髪を後ろにくくり、みすぼらしい格好をして、特有の言語を使い、放浪の旅を続けるというものだろう。
そのイメージは、ジプシーをひとつの民族として捉えること、そして(すべてではないが多くの)ジプシーが話すロマニ語が、インド系言語であるサンスクリット語に起源を持つということに裏打ちされる。身体的特徴を含んだ民族学的見地と言語学的見地のみによって成り立ったイメージでありながら、長くにわたって主流とされた考えであった。
筆者は、歴史・社会・民俗学的見地に基づき、ジプシーとよばれる人たちを次のように定義する。「国家の形成と資本主義社会の成立の課程で、主流となる社会の構成員から迫害を受ける形で発生した人びと」と。ジプシーと呼ばれる人びとは、日本と中国以外であれば世界中どこにでも住まうと言う人もいるが、今日、同じジプシーといわれる人びとであっても、それぞれの社会においてまったく異なる独自の習慣・文化・歴史・言語が存在していることを明らかにする。
世界中のジプシーを一緒くたに扱うことの不毛さを批判し、欧米・日本を問わず、ジプシー研究は決定的に立ち遅れていることを指摘する。その上で、ジプシー研究においては学際的・複合的なアプローチが必要であることを述べる。本書は読者にとって、ジプシーを誤解なく解釈するための地ならしのような効果がある。
さらに最終章では、日本における封建体制崩壊の過程で発生した「サンカ」と呼ばれた人びとについての研究と比較検討し、日本でのサンカ研究とジプシー研究は互いに有益なものになるはずとの興味深い見地を示している。
個人的にもハンガリーで暮らしていると、老若男女を問わず、ジプシーと呼ばれる人への差別意識が、潜在的あるいは顕在的に、個人ひとりひとりのレベルで感じられることがよくある。多様であるがゆえに一枚岩といかないジプシー側の人権団体にも確固とした組織のあり方が問われているが、それ以上にジプシーと呼ばれる人々の歴史・文化・暮らしが主流社会で誤解なく認識されていくことが、ジプシーという圧倒的にマイノリティな存在との共生へのスタートになるだろう。東欧諸国がEU入りをしてまだ5年だが、今後政府各国が示す方針にEUがどのようにコミットしていくのか、注目されたい。
Jul 5, 2009
さいきん読んだ本19
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